KYとは強迫観念による抑圧である

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KYという言葉が使われるようになって久しい。「空気を読めない」の略で主にネガティブな意味合いを込めて使われるこのKYという言葉は今年の流行語大賞のノミネートにまでなったのだからKYが市民権を得た事実は否定のしようがない。私が初めてこの言葉を耳にしたのは今年の夏頃だったのだが、最初に聞いたときにはいまいち意味がわからなかった。シチュエーションとしては二十歳を少し過ぎた頃あいの女性二人が、同僚のいわゆるイジられキャラ的ポジションに属するであろう男性に向けて「ほんとあんたってKYだよねー」といった具合で使っていたわけだが、私も聞き耳を立てるつもりではなかったのだけれど彼女等があまりに何度もKYを連呼するので気にせずにはいられなくなってしまった。彼らの会話から推測するに私はKYを最初はキモイの進化形なのかなと思っていた。それから程なくして私はKYの意味を知るのだが、それでは「空気を読めない」とは一体どういうことであり、なぜこの言葉は否定的な見地から使われるのだろう?
そもそも日本には厩戸皇子の時代から連綿と続く「和を以って貴しとなす」という儒教的価値観にもとづく倫理観がある。他人を尊び不用意な諍いを起こさないことが善とされたこの価値観はいつしか社会規範となり、日本人の行動原理の根底を形成するにまで至った。そしてこのような社会の下で我々日本人は以心伝心や暗黙の了解といったいわゆる空気を読むという能力を磨かざるをえず、次第にこの能力に長けた者がもてはやされ、そうでないものは疎んじられるようになった。例えば合コンの席で明らかに急場をしのぐためだけに連れて来られたであろう女性がいたとする。彼女は他の女性陣に比べると明らかに異質であり、普段から彼女等と親交があるとは思えない。この際男性に求められるスマートさ、つまり空気を読んだ行動はその異質な彼女に対して余計な詮索をせず他の女性と押し並べて均等に接する、もしくは彼女にはあまり触れないことであろう。しかしこの場にKYがいたとすれば大変だ。彼はきっと彼女等に「みんなはどうゆう関係なの?」と質問し、さらにその答えを受けて彼は異質な彼女に対して事の真偽を確かめることすらするかもしれない。もちろんこの時KYと彼女以外のメンバー間では幾多の目線が交わされ、その目線にはこの言葉が内包されている。「空気読めよ!」
しかしこの時の彼の行動は本当に忌避されるべきことなのだろうか?もしその場にいたのが皆一様に空気の読める人間だけであり、彼等が異質な彼女というタブーを抱えたままでコミュニケーションを作り上げていったとしたら、そのコミュニケーションに本当の価値はあるのだろうか?もちろん無理やりに連れて来られた彼女にもそっとしておいて欲しいという願望はあるかもしれないが、空気を読むということが腫れ物には触らずその場を丸く収めるということに終始するだけなのであれば私はKYではないということに大した価値は無いように思える。
つまり私にとっては空気が読める・読めないという価値基準自体がまず曖昧であり、空気が読めない、ひいてはKYと呼ばれる人たちは日本人特有の均一化願望を持った大多数にとってのスケープゴートにしか思えない。さらに言えば大多数はいつ自分にKYの烙印が押されるかもわからないといつも怯えているのだから、KYは「空気が読めない」やつは集団からはじき出されてしまうという「強迫観念による抑圧」にすら思える。結局、KYという言葉がここまで広く一般に浸透したのは自分達とは相容れない他者を容易く断罪し自分達の繋がりを確認したいという人がそれだけ多かったということの表れなのだ。
最後に一つ提案を。流行り言葉というのはそれぞれの時代を反映したまさに鏡のようなものなのだからどうせならハッピーな意味合いのものが流行ってほしいものです。そこで今からでも遅くないのでKYを「恋の予感」という意味で使いませんか?
「ヤバイ、今のKYだわ。」なんて笑顔で言う人が増えたら素敵だと思うんだけどな。