From Up On Poppy Hill

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映画「コクリコ坂から」 11年 日
監督:宮崎吾郎
主演:長澤まさみ:松崎海 役
   岡田准一:風間俊 役



見終わった後に爽やかな切なさが残るいい映画だった。
冒頭、主人公の松崎海が朝起きてから朝食を作るシーンが良い。
静かな朝にひとり彼女が行う一つひとつの作業はまるで宗教的な意味を持つ儀式のように決まった型の中で無駄なく行われていくが、やがて食卓に同居人達が集えばそれは何でもないただの日常に過ぎなくなる。
まだ誰も起きていない静かな朝に期せずして起きてしまい、その朝が少しずつ生活の音に満ちていくあの感じを誰もが1度は経験したことはあるだろう。
日々の営みに潜む日常性と非日常性が交わり、ときに互いを断絶するダイナミズムが開始わずか数分できっちり描かれている。
見ていくうちに気がつくことだがこの作品はそのシーンに代表されるような何気ない日常の描写に魅力が詰まっている。
実を言うとその魅力が途中まではノイズに感じた。
脚本を担当した宮崎駿の懐古趣味に付き合わされているだけにしか感じられないと思ったからだ。
映画の舞台は東京オリンピックを目前に控えた1960年代前半。当時の生活の様子を克明に描くことに異論はないが一方で物語が鈍重でこのままこの作品はなんとなく懐かしさを感じさせるだけの「物質よりもこころが重視された時代」的な陳腐な教訓を垂れるだけのどうしようもない映画になるかと思った。
それが海と俊のあいだにある現実的な問題が表面化してから変わる。
劇中で俊が言うように「まるでメロドラマ」な展開かもしれないが、一人の少女の中で不可抗力にうごめく感情とまるで奇跡のように代わり映えしない日々の営みの対比がここにきてバッチリはまってくるのだ。
いつもの食卓でいつもと同じ顔ぶれの中で食事をしているあいだにも自分だけが別の世界にいるような不思議な感覚。
現実感が行きつ戻りつしながら自分に覆い被さってくる恐怖。
体やこころだけが急激に変化していくのにそんな自分を取り囲む世界は1ミリだって変わらないままでいることに対するもどかしさ。
受け入れがたい現実をそれでも受け入れて前へ進もうとする少女の高潔さは胸を打つ。そんな時でも世界は相変わらず静かに回り続けているのだと感じさせるのは、ここに至るまでにそんな毎日を執拗に描いたことへの立派な報償だ。
ストーリー展開に対する理屈付けや登場人物のキャラクターの掘り下げの至らなさなど気になる点はあるが、上映時間を90分少々でスッキリとまとめることにした選択を支持したい。
おかげで折に触れ何度も見直したくなる愛おしい作品になった。


コクリコ坂から (角川文庫 み 37-101)

コクリコ坂から (角川文庫 み 37-101)