ジェーン・スーに魅せられて
っていうタイトルで昨日からの続きみたいな記事を書こうと思ったのですが時間がないので手短に。
言いたかったことはこの連載を読め! ということ。まだ2回めだから余裕で追いつける。
褒めるところしかない。
文体は軽やかで読みやすく内容も微笑ましいのだけれど全体にセンチメントの膜が薄く張られているかのようにちょっぴり切なさに彩られている。これを美文と言わずしてなんと言おうか。
昨日とりあげた鈴木涼美さんの文章とはまったく別の魅力があってボクはどちらも等しく好きなのだけれど、例えばひとりで旅に出たとしたらジェーン・スーさんの文章をお供にしたい。そしてふとひとりの寂しさに襲われた時、この文章を読んで孤独の甘い痛みに浸るんだと思う。
ちなみにジェーン・スーさんのベストセラーといえばこれ。こっちはスーさんがラジオで話すテンションで書かれていて上で紹介した連載と趣は違うかな。こっちもべらぼうに面白いですが。
([し]10-1)私たちがプロポーズされないのには、101の理由があってだな (ポプラ文庫)
- 作者: ジェーンスー
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2015/09/04
- メディア: 文庫
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手短にと言いつつ筆が乗ったのでもう少し。
この人は文章も書いてもラジオパーソナリティをやっても素晴らしいのに作詞家としても辣腕をふるっていて、土岐麻子さんとの仕事などが特筆すべきものなのでしょうが、ここはやはりトマパイの曲を貼っておきたい!
ま、これについては小難しく評論めいたものを書いても自分の洞察の浅さを露呈するだけなのでこれにて以上!
とにかく連載を読むべし!(最後にまた貼る)
鈴木涼美にあこがれて
厳冬期は抜けたのにここにきてうっすら喉の痛みを感じている肌寒い春の夜です。このまま今年は逃げきれるかと思ったのにいまさら風邪なんて。季節の変わり目に体調崩しがちな自分がイヤになるな〜。
むかし仲良くしてたセンパイが風邪気味のときはC-1000タケダを一気飲みして寝れば大丈夫って言ってたのを真に受けて何回か試したけどまったく効かなかったの思い出したわ。
それなら山本昌(だったはず)流に風邪気味かなと思ったら風邪薬を大量に摂取して寝るという予防法というか強攻策に出たほうが確実な気がすると判断ができるくらいには成長しました。
タイトルにあるお名前はいまボクがかかさず読むブログのひとつの書き手さんで、著書も読んでいるのですが、なんというかこの人の文章が妙に好きだなということを書いておこうと思った次第。
この本なんかはかなり独自の文体で書かれているので苦手な人は相当苦手なことは想像に難くないのですが、そういうものこそハマる人はハマるもので、まさにそこにハマったクチ。
その流れでブログもスタート時から一回も逃さず読んでます。内容はほぼ身辺雑記、あとはいい男とはいい女とはみたいな俗な話題が中心でこれを読んでなにか身になるものがあるわけではないんだけど、やっぱ文章がいいんだよなあ。圧倒的な軽さ! ダラダラと流れだすものをそのまま書き連ねてるだけ(に見える)の無為自然さとでも言いますか、そういう気負いの無さが良い。
で、そんなテンションのままさらりと真面目な内容を挟むことがあってその時の軽やかさはすごかった。
これがその記事。
どうしてもオレは真面目なこと書くぞ!ってう時は肩に力が入りがちなのでこの軽やかさに憧れます。
ってここまでの文章がすでに軽さに欠けてんだよなー。
ま、憧れは憧れってことで。この人の文章ほんと面白いのでよかったら読んでみてくださーい。
おとなの贅沢
相変わらず蟹江さんからの新作ダウンロードリンクが送られてこない春の夜です。
それでもまだ平気でいられるのはほかに聴きたいものが溜まっているから。ここ数年しっかり音楽に向き合うことが減っていたけれど久しぶりに音楽熱が高まってます。
アルバムをじっくり拝聴して思った結論。
ながら聴きではなくじっくり音楽を聴くってすっごい贅沢な時間だな。映画に比べればアルバムなんて長くても1時間ちょっとなのに、音楽にだけ集中するこの1時間のなんと尊いことか。
学生の頃に聴いていた曲はとてもよく体に馴染んでいるのに大人になってから出会う音楽に同じ思いを抱きにくいのは音楽に向き合う姿勢に原因がありそうだ。
あの頃は同じ音楽を何度もそれだけに集中して聴いていたもんな。いまは音楽を聴くことだけに時間を捧げるのがとてもむずかしい。
映画館で映画を観るのは半強制的にスクリーンに集中させられるから2時間じっくり時間を使えるのに、家で音楽を聴くとなるとそうはいかない。ついついスマホをいじってツイッター見たりLINEしちゃったり。
でもたまにはなにもせず好きな音楽を、新たな音楽を1時間じっくり聴いてちょっと贅沢な気分に浸るのも悪く無いと思った次第。
いまさらすぎて恥ずかしいけどマムフォード・アンド・サンズすっげーいいですね。
これがいいたかった。
春の嵐/いい話のジレンマ
Kanye Westが新作The Life of Pabloをネット上で一般に販売開始したのでさっそく手続きするも一向にダウンロードリンクが送られてこないここトーキョー。どうやら同じようなトラブルが世界的に報告されているようなので安心。いや、安心しちゃダメか。蟹江さん、はやくリンクくださいね。
今日も強い風の中を走りました。
ほんと自分が走るときに限って風が強くなるのなんなのと思うのですが、とある地点だけ異常なほど風が強いのは完全にビル風というか地理的なものが影響していることは確か。ちょっとまともには走ってられない風力なのでいっそのことそこにタービン置いたら案外風力発電できんじゃね? とかなり浅はかな考えさえ浮かびます。
とは言え桜と春の嵐はワンセットっていう自然の摂理が世の儚さを体現しているようで意外と嫌いじゃなかったりします。
春の嵐という言葉を思い浮かべるたびに思い出すのはこんな曲。
突然ですけど、いい話好きな人っていますよね。
ちょうどいまさっきfbを見たらまた誰かが真偽不明のスター感動話みたいなのに『いいね!』してたので脱力したところです。
なんかしゃくなのでリンクも張りませんがおおまかに箇条書きで説明します。
・とある有名サッカー選手が主人公
・彼が養護施設にお忍び訪問し子どもたちとサッカー
・なぜかそこに新聞記者がいた
・学校から出てきた選手に直撃インタビューする記者
・「これは人気取りのためですか?」
・意地悪な質問に選手は「僕のほうが彼らからたくさん色んな物をもらってると思わないかい?」と聖人君子の返答
・記者は自分の底意地の悪さを反省
って、こんなあやしすぎる話を「いいね!」する勇気ボクにはありません。
同じように疑惑の目を向けて記事にコメントした人に「素直に感動できないなんて可哀想なやつだ」と反論する心のキレイな人がいらっしゃいましたが、多くのいい話クレクレさんって結局『聖痴愚』的な思い込みに毒されているだけでさ、養護施設っていうキーワードと清廉なイメージのあるスポーツ選手が、まさにそのイメージ通りの役割で配置されている話が好きなだけじゃん。
こっちからしたらこれこそ差別だろってなもんで、養護施設にいる子どもたちはみんな心が真っ白ないい子たちなのであるというイリュージョンを押し付けてるに過ぎないでしょう。
話はそれるけどいま話題の乙武さんにしたってブラックな部分があるのは人間だから当然だし、なにより昔から彼自身や吉田豪さんがガンガン暴露してるわけでさ。
それを身体障害者(および知的障害者)はいい人であるという「そうであってほしい願望」を守るために見ざる聞かざるで知らんぷりしてた人がヒステリックに「そんな人だと思わなかった!」とか騒いでも本人もいい迷惑なんじゃないかな。(念のため言っときますが不倫自体を肯定してるわけではないです)
ちなみに、世にはびこる「障害者はいい人たち」信奉者を逆手にとった快作に『リンガー! 替え玉★選手権』という映画がありますのでぜひご覧になればよいのではと思います。ま、そういうナイーブ(英語本来の意味で)な人は絶対手に取らないタイプの映画ですけど。
閑話休題。そもそもこの話がよもや事実だとは思えないのは、なぜか養護施設に居合わせた記者の「人気取りですか?」って質問の部分ですよね。なにこの非実在記者。すごい胆力だなー。百歩譲ってこの話が本当だとしたら、スター選手のうまい返しを賞賛する前に、このとんでもない悪意を持った記者に興味が湧くタイプです。この状況でこんなこと言えるなんてよっぽど壮絶な生い立ちなんだろうな、と。いい話クレクレさんもそこまで想像力働かせましょうよ! 彼(彼女)だってきっと好きでこんな質問したんじゃありませんよ。社会が、周りの人間が彼(彼女)をこんなにしてしまったんです。その背景にこそ問題意識をもち共に変革を起こしましょう!
ボクはなにもこういういい話がダメだと言ってるわけじゃなくて、SNSなんかで拡散されがちないい話の多くが根底に逆ベクトルに偏見を助長する仕掛けを施した巧妙なフィクションであることを懸念しています。
今回の話は有名人が実名で使われているところがさらに悪質。
『いい話』が好きでそれを拡散しがちな人が実際に優しくて思いやりのある人だからこそジレンマも深まります。僕のfb上でこの記事を「いいね!」してた人もめちゃいい人ですし。
「素直に感動できないなんて可哀想なやつだ」
ほんとこのコメントに集約されるなぁ。内容の真偽はどうであれ自分が信じたいものを信じることが素直さであるなら、それは思考停止なだけ。
あと、自分と違う意見をもつ人を可哀想なやつと切り捨てることができる絶対の正義観も怖いなあ。きっとこの話の主人公であるサッカー選手ならボクみたいな人間も否定せず受け入れてくれると思うんですけど、いかがでしょうか。
1918年のワンダーウーマン
三寒四温の頃になるとその日の気温で一喜一憂することになって気分も乱高下しますな。さりとて気候の良し悪しは人間の精神状態に大いに関連があると思うわけですよ。単純ですけど温暖な気候の下で生きる人と厳しい気象条件で生き抜いている人のパースペクティブが同じにはならんだろうと。
具体名は出しませんがヨーロッパの北の方と南の方で経済状況とか福祉体制に大きな差異があるのは生き抜くための心構えとか覚悟みたいなリアリティの差そのものな気がしますね。
これ本題とはまったく関係ない与太話ですけどね。
興行面での大成功とは裏腹に批評的にはわりと厳しいこと言われがちな『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』観ました。
映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』特別映像【HD】2016年3月25日公開
思ってたよりは悪くなかったというのがワタクシの受け止め方です。Set the bar low though.
「バットマン対スーパーマンってどう考えてもバットマンに勝ち目ねえじゃん」とはワタクシの会社のライトな映画好き先輩の弁ですが、それを言っちゃあおしめえよということをズバリ言ってしまうのがこの先輩のお人柄でありますので「いやしかしですね、バットマンはDCコミックスの中で最も狡猾なキャラでありまして勝つための対策は徹底的にする野郎なんです。それにそもそもこれは映画なんですし下馬評を覆すダイナミクスにこそ映画のだいご(以下略)」とまさにバットマンの如く徹底抗戦で先輩を論破することもなく穏便にその場をやり過ごしたわけですが、思った通りバットマンはやる男でした。
『マン・オブ・スティール』のときからどうにも肩入れしにくいキャラだと思っていたスーパーマンは相変わらずキャラ造形にパンチがなく、ただのサイコになったレックス・ルーサー・ジュニア(ジュニア?!)に屈するシーンも可哀想というより見ていて痛々しいというか惨めにしか思えず、ヒーローのジレンマとか正義とは悪とはを問いかけるはずのシリアス路線が凡庸な葛藤や枷に苦しむ程度の、ダークで陰鬱なのは画面の見た目の影響が9割、な作品であることは確かです。
その中でバットマンに負けず劣らず頑張ったのがワンダーウーマンで、登場シーンのBGMなんて「ここだけ別の作品か?」と思わずにはいられない盛りっぷり! 『マン・オブ・スティール』のワタクシの感想が下なんですけど
映画「マン・オブ・スティール」僕のスイート・スポットにはハマらなかったな、と。もうすぐでイキそうなのにじらされて結局そのままイケずに終わったっていう…。壮大な前戯。
— Yuma (@mr_koumatsu) 2013年9月1日
同じ体で言うならワンダーウーマン登場シーンは「絶頂!」
色んな物がドバドバ出た感じ。
劇中でワンダーウーマンが過去に激写されている写真が出てきますけど、その写真のご尊顔とリアリティがたまらなくて、なんならその写真だけでイケるんじゃないかってね。
もうとにかく1918年にベルギーで撮影されたその写真だけでも劇場で観てほしいくらい。正直ググったら見れるけどスクリーンでぜひ。パネマジなし!
ここ最近19◯◯年の〜という本が立て続けにヒットしてますけど次はぜひ『1918年のワンダーウーマン』で!
ワンダーウーマン繋がりで最後に、『エイジ・オブ・ウルトロン』の時も今回の『バットマン vs スーパーマン』の時も戦闘シーンを観てドラゴンボールの実写化を見ている気にすらなったのですが、2017年に公開予定と言われているワンダーウーマン単独作では別の少年ジャンプの名作を疑似体験できそうな予感。
(写真はimdbより
http://www.imdb.com/media/rm2793938688/nm2933757?ref_=nmmd_md_pv#)
聖闘士星矢!!
風の強い日はアレルギー。そしてバンクシー・ダズ・ニューヨーク。
走る日は風が強い。
花粉飛び交う中、クスリを飲み忘れたままで走るのはなかなかリスクが高いけれど、そんなのかまっていられない。
その昔B'zが歌っていた意味が今になってようやく腑に落ちた。
甲州街道のちょっと手前辺りでmy dj iPhoneがこれを流したのでかなりアガったな。
一歩どころじゃなく二歩も三歩もさきに夏の気分を少しだけ。こういう曲を聴いて気分が高まるくらいには暖かくなってきた。
はなしは変わって先日『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』を観た。
90分程度の本編で7割近くがバンクシーの追っかけ(劇中ではBnaksy Hunterと表記)やニュース映像の転用というドキュメンタリーで、大変現代的な制作方法だった。
なにより印象的だったのはファイブ・ポインツというニューヨークの外れ(?)にある地域で、ここはグラフィティがビルいっぱいに書き散らかされているストリートアートの集積地だった。
だった、というのは文字通り過去の話だから。劇中では無残にも白く塗りつぶされたファイブ・ポインツの姿が浮かび上がり、ひょっとしてバンクシーが2013年10月のニューヨークに現れた理由はここにあったのかもしれないと思わずにいられない。
バンクシーが触れると街角のすすけた壁も工業製品のシャッターも一夜にして数千万円の資産になる。けれどファイブ・ポインツの街を彩る名も無きアーティストたちのグラフィティは大型ショッピングセンターの建設予定地として取り壊されるだけ。資産価値ゼロの落書きでしかない。
そんな厳然たる事実を前にすると芸術の価値とは? というクリシェが頭をもたげてくる。
そんなときはいい音楽を聴いて忘れてしまおう。
Richard Hawley - Tonight The Streets Are Ours
ランナーズ・ディライト
おそらく38回目くらいのトライの末にこうして文章を書いている。
ランニング中は色々なことを考えたり感じたりしている。その大半は取るに足らないものばかりだが、その取るに足らなさも定期的に記録すれば、それはそれで興味深いのではないかと毎回考え帰宅してシャワーを浴び一息つく頃には文章をしたためる気力は雲散霧消、どこかへ飛んでしまう。その積み重ねがおそらく38回だ。
いや、38回というのは言うまでもなく誇張だし、実際はもっとたくさんの「まあいいか」がこれまでにあった。
それがなぜ今日に限って実際に文章になったかと言えば暇だからだ。
今日から心機一転ブログを書くぞ! なんていう決意は毛頭ない。
ちょっと書きたくなったから書く。それだけ。
ランニングをしていると体の調子、バイオリズムと呼ばれるようなもの、がよくわかる。今日はとにかく体が重くキレがなかった。昨夜10キロ走ったからだろう。
本当なら今日は短めの距離を早めのペースでスパっと走りたかったのに気持ちと体が一致しない。走っても走っても全然前に進まない。自分だけが孫悟空ばりに重力10倍の空間で修行、この場合エクササイズやトレーニングなんて言葉は似合わない、をしている気分。しんどいランだった。
それとは逆に今日はこのままどこまででも走れるんじゃないかと錯覚するほど体が軽くスピードを感じる日もあって、そういう瞬間に味わう高揚感はたまらなく気持ちがいい。ランナーズ・ハイと言われる状態はきっとこういうことだろう。
登山家とランナーはうんざりするほど質問される。どうして走る(登る)んですか?
やってみたら分かる。でも一回くらいじゃわかりっこない。だから大半の人はわかる前に辞める。そして周りにこううそぶく。
あんなのやってるのマトモな人じゃないよ。
それぞれがそれぞれに高揚感を感じることを楽しめば良いな。(Notシャブ推奨)