トーテムポールと背比べ

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私の名前は浅倉南。隣のお家に双子はいない。私は新体操もしなければ野球部のマネージャーだってしていない。
私はあくまで21世紀のここ日本に住まう一人の平凡な女であって、2次元の世界に於いて自らの意思を持たず、ただただ世間から求められたキャラクターを求められるがままに粛々とこなしていく爽やかで笑顔の似合うセックスなんて口にすることすら許されない、言わば「俺は永遠に少年なのだ」なんていう浅はかであさましい幻想を抱き続ける男共にそのモラトリアムへの招待券を保証するための装置なんかではない。
つまり私は両親の、正確に言えばご多分に洩れず男の夢だとかいう身勝手な好みを押し付けた父親の、そのあまりにも短絡的で刹那的な決断によって非常に現実的で長期的な実害を被っている。
私に近づいてくる男(私の名前は彼らにとって声を掛ける恰好のきっかけになる)のほとんどは私に矢張り「浅倉南的」な振る舞いを期待する。私はいつも彼らを思いやり、優しい言葉をかけて、たまにわがまま(これももちろん男の自尊心をくすぐるような可愛くて極めて非現実的なものだ)を言わなけらばならないらしい。私は決して付き合う際に男のほうから念書に「わたくし浅倉南はあなたと付き合っている間に決して非浅倉南的な行動をせぬようにここに誓います」等と記すように強要されたりしない。けれども彼らは私にそれを期待する。そして私から彼らの期待に副えないような言動がでるたびに彼らは引く。そしてやがてメールの頻度が減り彼らは私の前から消えていく。私はいつだって減点対象だ。


私が元から彼らの願望に耐え得るような(もちろん百パーセントは無理だ、絶対)女性だったら私は今よりも幸せだったのだろうかと思うときがある。けれどもそんな空想は矢張り意味を為さない。ジョンは「イメージしてごらん」って言ったけど、どうにもならないこともある。だって、ねえ、ジョン、どれだけイメージしたところで私は私でしかありえないよ。そして不幸にも(これはもちろんその手の男達にとってだが)私は、セックスが、とても、好きだ。だから私がベッドの上で可能な限りの喜びを貪ろうとすると彼らは萎える。「こんなのは浅倉南的ではない」と言う。中にはそれが逆に興奮に繋がるという男もいたが、それも矢張り「あの南ちゃんがこんなことを」みたいに常に彼女との相対性の範疇でしかない。私は思う。私は一体何処にいて、私は一体何だっていうのだろう。現代的文明生活において極めて便宜的な役割を果たしているに過ぎない名前という制度によって、何故私は私という人間までをも不当に制限されなければならないのだろう。名前。極めて暴力的で極めて絶対的な文字の羅列。名前。馬鹿みたい。だというのに!!私は恋に落ちた。それはひらひら舞い落ちた一片の葉を飲み込んだ濁流のようにあらゆる抵抗を無効化した。まあ、抵抗する気もなかったのだけれど。
「はじめまして。俺、上杉達也っていいます」
名前。名前。名前。