小林秀雄の白熱教室! 『学生との対話』を読んで。

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小林秀雄『学生との対話』

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小林秀雄という人のことはよく知らない。名前くらいきいたことはあったけれど。

そんな男がどうしてこの本を手にとったのか。

ある信頼する読み手が言っていた。

「これは小林秀雄版『白熱教室』。万人に読んでもらいたい。この本で知的な興奮がどういうものか味わってほしい。10年に1冊の良書」

そこまで言われてスルーできるくらいならその人の話なんてはじめから聴いてない。

 

 

小林秀雄、批評家。

この本は昭和36年から昭和53年にかけて彼が九州の『学生合宿』に訪れた際、学生たちに行った講義と、その後の質疑応答の内容をまとめたものだ。

本の帯にあるように彼は学生たちからの言葉を引き出すことに主眼をおいた。

本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。(略)僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって答えをだすこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる

 

この本、「去年行われた質疑応答の様子を再録しました」と言われたらなんの疑いも持たないほど、学生たち(昭和36年に大学生なら今頃70歳前後だ)が小林秀雄に問いかける質問はいまの学生たちのそれと遜色ない。

つまるところそれは、私たちはどうやって生きていけばいいのか?ということ。

よく考えれば驚くことでもない。100年も200年も前、いやソクラテスの時代から多くの人が考え続けていることだ。

だから彼はこう返す。

「なぜ君は、哲学を勉強しようと思わないんだ?」

 

さらにもうひとつ今も昔も変わらない問いがある。

『わたしはわたしがわからない』

この問いに対する彼の答えもまたシンプルだ。

「歴史を勉強しなさい」

 

君が自分を知りたい時も、直接には君自身を知ることはできないのです。直接自分を知るなんて、そんなのは空想ではないかな。自己反省などと言うが、そのとき君自身はどこにいるのですか。君自身を反省するとは、君の子供の時のことを考えることだ。子供の自分は他人ですよ。歴史的事実ですよ。(略)では織田信長を振り返ってみたまえな。織田信長という人間の性格は『信長公記』という本を読めば、理解できる。君が読み終わって「ああ、信長ってやつは、こんなやつか」と思ったのなら、「俺は信長ってやつに興味を抱いているな」とわかる。あるいは、嫌なやつだなと思うかもしれない。すると、「信長を嫌うものが自分の中にあるな」とわかります。それこそ君、自分を知ることではないか。 

 

ここにいる自分を探すためにどこかへ旅に出る必要はない。

なにかを知りたければよく考えることだと小林秀雄は言う。そして本居宣長の説を引く。

 

<考える>ことを、昔は<かむかふ>と言った。宣長さんによれば、最初の<か>には意味はなく、ただ<むかふ>ということだ、と。この<む>というのは<身>であり、<かふ>とは<交う>です。つまり、考えるとは、<自分が身をもって相手と交わる>ことだと言っている。

だから、考えるというのは、宣長さんによると、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。人間について考えるというのは、その人と交わることなのですよ。そうすると、信ずることと考えることはずいぶん近くなってきやしませんか。

 

 

自身が学生たちに伝えたように小林秀雄は質問に対して言葉は返しても決して答えを出さなかった。きっと答えになど興味がなく、虚心になって考え、学ぶことを大切にしているからだ。

彼ほどの碩学が見せるこの謙虚さになにより身が引き締まった。

 

「10年に1冊の良書」

その言葉に納得の一冊。

 

 

学生との対話

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