Cesare deve morire

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映画「塀の中のジュリアス・シーザー」12年 イタリア
監督:パオロ・タヴィアーニ ヴィットリオ・タヴィアーニ



2012年ベルリン映画祭で最優秀作品賞である金熊賞を獲得したタヴィアーニ兄弟による作品。
僕はこの映画が映画祭で賞を獲ったという事実は知らず(ちなみに第85回アカデミー外国語映画賞にもノミネートされているそうです)、映画館の予告編を見て「まあタイミングが合えば見てみようか」程度に思っていたら「ムーンライズ・キングダム」からはしごして観るのにちょうど良いスケジューリングだったし上映時間が76分と短かったので見て来ました。つまり予備知識はほとんどなし。
予告から読み取れた情報は「出演者は実際の囚人」であるということ、そんな彼らが「刑務所内で行った演劇実習のドキュメンタリー」だということの2点です。
この時点でだいたい鑑賞後の感想は見当がつきます。


犯罪者が獄の中で演劇に打ち込む姿から人は過ちを犯しても懺悔の果てで生まれ変わることだって可能なんだということ。


彼らの目を開かせ鼓舞するのは芸術であることから、芸術のもつ力を思い知らされるということ。


おそらく見どころは、本当の罪人が劇中で罪を犯すというメタ構造からにじみ出る葛藤だということ。



上映前からそういうモードに入って準備していたんです。
そうしていざ映画が始まるとなんか違うなぁとしっくりこない。
別におもしろくないということではないんです。おもしろくないどころか舞台設営が完成するまでの繋ぎとして刑務所の中で練習している風景をそのまま劇の進行に使用してしまうという作りには「この手があったか」と感心しました。
でも僕があらかじめ予期していたような点についてはそこまで描写がなく、劇が割りと淡々と進んでいくんです。それにドキュメンタリーなんだけれどカメラ割りがカッチリしすぎで画が上手く撮れすぎ。要はドキュメント感が薄い。
だから最後に実際の舞台風景が来てもそこまで気持ちが高まりませんでした。通常であれば舞台上のクライマックスと映画としてのクライマックスを同期させるような作りにするだろうに。
そういったわけで悪いのは観る前から勝手に内容や感情の動き(自分のね)を予測していたこちらなので肩透かし感はあるけれど仕方ないよなぁと思いながらスクリーン出口に掲示されていた新聞雑誌のレビューに目をやると・・・。


なんじゃこりゃあ!!


出てるのはホンマに囚人やけどあのオーディションも練習風景も全部台本ありきやてっ?!
その上でさらにジュリアス・シーザーの舞台を本当にやってるて、どんだけレイヤー重ねとるんやっ!!
このどんでん返しは自分の情報不足が勝手に招いた結果なのでみなさんにも同じ衝撃が与えられるとは思いませんが、この情報ありきで思い返すと
「この監督、なんて面倒なことしてんだよ」
と思わずにいられません。


この映画は画面が実際の舞台と舞台を終えた囚人たちが自分の房に戻っていく時だけカラーで、あとの(フェイク)練習風景は全部白黒なんですね。
色のない世界は囚人の彼らが自分たち自身を演じているという半虚構の世界。色のある世界は彼らが彼らのままでいる現実世界。でもその現実は舞台上で拍手喝采を受けた直後に鍵付きの狭い部屋に押し込められるという厳しい現実です。
想像力が全てを超越するとよく言われます。この映画はそのクリシェに対するカウンターパンチです。
どれだけ芸術が彼らを鼓舞しても、色付きの世界にいても、彼らが犯した罪は消えずにそこにあります。想像力の翼でも飛翔できない重い枷です。
映画の最後に囚人がひとり牢屋の中であるセリフを言います。これもおそらく台本通りでしょう。でも彼がどんな思いであのセリフを言ったのか。そこにある虚実の皮膜に思いを巡らせたときこの76分しかない映画に潜む深淵の深さが、覗きこんだこちらを覗き返してきたのでした。