魚釣島/尖閣諸島の裏にある不都合な真実

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去る9月19日のNY Timesウェブ版に尖閣諸島に関する意見記事が載りました。
記事のタイトルはThe Inconvenient Truth Behind the Diaoyu/Senkaku Islandsで日本語にすれば「魚釣島/尖閣諸島の裏にある不都合な真実」といったところでしょうか。
不都合というからにはその主体者がいるわけで、今回の記事において不都合を被るのは奇しくも日本になっています。
台湾人ジャーナリストのHAN-YI SHAW氏の記事を紹介するNICHOLAS D. KRISTOF氏は「アメリカは実質的に日本側に立っているがいちおう中立の構え」であることを明記し、自身はこの問題を巡って中国で起きた暴動について「暴力は批難されるべきものであり、自らを道理の通らない悪漢に見せるだけの行為である」と批判。
さらには中国政府の対応のまずさにも言及し、この問題は国際司法裁判所で解決するべきとしています。
しかしながら、NYTimesが取り上げたこの記事は「尖閣諸島はもともと中国のものであり日本が1895年に戦利品として実質的に「盗んだ」(原文:stole)ものであると主張し、これを支持する証拠が昔の日本政府の書類から発見されていると続けます。


以下は記事の要約。


日本は魚釣島/尖閣諸島国際法に照らしあわせても歴史的な観点からも日本固有の領土であるという主張を崩しておらず、繰り返し領土問題は存在しないと訴えている。
しかし、日本をのぞくすべての国は1895年に日本が不法に領土を併合した事実を隠し続けていることを承知している。
日本の言い分は1895年の実地調査の結果、魚釣島には人の住んだ形跡が見られず、よって清王朝による支配を裏付けるものは何もない、というものだ。
しかし私が調査した40点以上にのぼる明治時代の政府資料は時の政府が1885年に中国による魚釣島支配を認めていると証明している。
日本政府が行った調査は不完全なものであり、1892年には沖縄知事がそう書き残している。彼は調査の続行を望んだが中央政府との意思の疎通がうまく行かず、さらには悪天候にも見舞われたため結局調査は行われなかった。
日本は調査により清王朝による支配の形跡を認めなかったとしているが、本当はただ日清戦争に勝利したことで魚釣島を併合したにすぎず、この不都合な真実をひた隠しに隠している。
日本の「第二次大戦終結後の調停で北京と台湾からはアメリカによる統治に反対するものは一切いなかった」という主張は正しい。しかし日本は両国がサンフランシスコ講和条約を締結する場に招待されてもいないことは言おうとしない。

尖閣諸島という名前は1900年にクロイワヒサシという学者によって紹介されたものを日本政府が採用しただけで、1895年の併合時にはなかったものだ。
第二次大戦後に日本から台湾島が中国に返還された際に中国政府は、住人のいない「尖閣諸島」が「魚釣島」のことであると気が付かなかった。だからこそ中国政府は遅れながらもこの島の所有権を主張するのである。


日本政府は2つの証拠をもって中国が尖閣諸島を自国の領土でないと認めていると主張する。
ひとつは1920年5月20日に長崎の中国領事が手紙の中で尖閣諸島を日本の領土と明記していること。
しかしこれは第二次大戦前の当時に日本が実質的に支配をしていたからであり、戦後の今は台湾返還と同様に魚釣島も返還されるべきである。
もうひとつは1958年に中国で発行された地図が尖閣諸島を領土から外していたこと。
これについて日本政府は大事な事実を隠している。地図帳の奥付に「国境線は1937年から1945年の第二次日清戦争前に編集された地図をもとにしている」と書かれているのだ。

清王朝時代の記録には1895年以前の中国政府による支配の記録が残されている。外交文書は魚釣島が国境線の内側にあることを示している。
台湾の地名辞典には魚釣島は10隻以上の台湾統治下にある船を収容していたと記述している。

原文は下から。

The Inconvenient Truth Behind the Diaoyu/Senkaku Islands