無限を生きる

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長い時を経てということなのですが、正直に言うと未だに断絶されていたのかと驚きました。


天台宗総本山・比叡山延暦寺大津市)の半田 孝淳 ( こうじゅん ) 座主が15日、和歌山県高野町高野山真言宗総本山・金剛峯寺を訪れ、宗祖空海の誕生を祝う同寺最大の法要「弘法大師 降誕会 ( ごうたんえ ) 」に同寺の松長有慶座主と並んで参列した。天台座主高野山を公式に参拝するのは、両宗の約1200年の歴史で初めてという。

 空海天台宗の開祖・最澄は晩年、対立したとされるが、相互理解を深めようと昨夏から、半田座主の高野山参拝を準備してきた。

 午前8時10分頃、半田座主は和やかな表情で金剛峯寺に到着。大師教会大講堂での法要では、松長座主と並んで壇上に参列し、稚児大師像に甘茶をかける「 潅沐 ( かんもく ) 作法」を行った。

 この後、奥之院に向かい、空海が入定している 御廟 ( ごびょう ) を参拝し、本坊で松長座主と会談。半田座主は「手を携えて世界平和と仏法の交流にまい進できれば」と話した。



それにしてもいい写真ですね。
お二人とも各宗派の頂点にいる方だけあって醸し出す空気がとても柔らかくそれでいて張り詰めているように見えます。
上の記事中にもお名前のある松長有慶座主のお書きになった空海伝によると、もともと空海最澄は同じ時に唐に渡りそれぞれ唐で仏教について学ぶ使命を朝廷から授かっていたそうです。
しかし最澄はいわゆるエリートで国からの公式な特使として一年間という期間限定での派遣だったため当時の唐で話題になっていた密教の教えを完全に会得することが出来ませんでした。
それに比べて空海は留学僧という立場で20年間は唐でみっちりと中国の仏教について学ぶことを使命とされていました。
それでも空海は持ち前の明晰な頭脳で持ってわずかな期間で密教の教えを会得したので結局2年程で帰国しています。
帰国後、空海が唐より持ち帰った密教の教えをもとに真言宗を開くと最澄密教を学びに金剛峰寺へとやってくるようになりました。
もちろん最澄も並外れた能力の持ち主でしたから教えをどんどん習得していきました。
空海も一度は最澄を次の阿闍梨(あじゃり)に据えようとも考えたそうですが、次第に二人の密教への姿勢の違いが現れ始めたのです。
つまり仏教=密教という空海密教観に対して最澄は仏教の中の一つのエッセンスとしてしか密教を捉えていませんでした。
やがて空海は自分が唐より持ち帰った密教の経典などを最澄に披露することを止めました。
さらには比叡山より高野山に修行に来ていた泰範に最澄が「密教の勉強はやめてそろそろ戻って来い」と手紙を出すと泰範に代わって空海が「真言の教えに心酔してもう帰る気などありません」という趣旨の手紙を送ったのです。
この最後の往復書簡を持って二人の、そして比叡山高野山の交流は途絶えました。
そしてそれから1000年以上もの時を越えてようやく両派の交流が今日公式に行われたわけです。
現代において宗教の果たす役割は非常に曖昧になってきているように感じます。
特に日本においては様々な理由で宗教=いかがわしいものというイメージさえ特に若い世代では強くあるように思います。
だからこそ今回のように伝統ある宗派の方々が世の中に対して肯定的な動きを示すことは非常に意味のあることです。
長い時間を経て人間が積み上げてきた叡智としての教えは宗教を信じる・信じないという議論を超えて単純に人が生きていくうえでとても有益な情報です。
今回の出来事をきっかけに少しでも多くの人が仏の教えに興味を持つといいのだけれど。