さよならテレビ
さよならテレビ
監督:土方宏史
薄っぺらいメディアリテラシーはもういらない!映画『さよならテレビ』予告編
まんまとやられた。
最後のシーンを観ながらこのドキュメンタリー映画が本当は誰になにを突き付けていたのかを思い知らされたからだ。
その切れ味はさしずめ良質なサスペンス映画の大どんでん返しさながら。「あなたは2度驚く」とか「ネタバレ厳禁」のような警句で宣伝されるにふさわしいが、そこはさすが『さよならテレビ』とタイトルをつける作り手たちだけあって、そのような極めて【テレビ的】な前フリはなくここまでたどり着いた。その結果として最高の【映画体験】ができたと言うのは少々陳腐に過ぎるだろうか。
話は少し脱線するが、本作が「なぜテレビはダメになったのか」を問うていたのでこの年始に見た象徴的なシーンを個人的な回答の一つとして書きたい。
それは、とある正月特番にゲストとして招かれたアスリートが番組の収録終わりに楽屋へ戻るとそこにはゲストの好きなあるキャラクターが待ち構えていて、というそれだけを観れば他愛のないサプライズ企画だった。
しかしこの番組はその他愛のない結末をさも大ごとのように煽り、何度もCMを挟んで視聴者へ提示した。待ち構えていたのは一体何なのかをひた隠しに隠しながら。
いわゆるCMまたぎの是非はわからない。素人目には決して有効策とは思えない手法が今もまだ行われているのはそれが事実有効だからなのかもしれない。
わたしがズレているなと思ったのはこの番組の作り手たちが視聴者を引き付けるためのフックをゲストが驚いた先に待ち構えていたキャラクターに設定したことだ。そのキャラクターに罪はないが、いまどきよほどのネタを仕込まない限りそのフリは成立しないだろう。CMまたぎのフックはキャラクターそのものではなく、サプライズにあったゲストがそのキャラクターにかける言葉や交わした会話という内容にこそあったと思う。
大したことのない内容に期待を持たせて視聴者を失望させる。そうして信頼を削り取っていく。その積み重ねの果てにテレビはダメになったのではないだろうか。
なお、視聴者とテレビの乖離の極北はこれ。
閑話休題。
今作は主軸に据えた3人の人選が本当に巧みだった。
東海テレビのアナウンサーである福島さん、契約社員として働くベテラン記者の澤村さん、同じく契約社員として入ってくる若手の渡邊さん。
作り手が彼らをテレビの役割である以下の3点と関連付けていることは明白だ。
・事件、事故、政治、災害を伝える
・弱者(困っている人)を助ける
・権力の監視
福島アナウンサーは夕方のニュース番組のメインキャスターとして実際のテレビの中でも主役を務めている。しかし過去のとある出来事によって表現することを過度に恐れている。「原稿をただ読むだけでなく視聴者に伝えてこそ本当のキャスター」と理想を述べながら、現実には自分の言葉を失っている彼は果たして理想の自分になれるのか。
学生時代にジャーナリズムに目覚めたベテラン記者の澤村さんは撮影当時、政府が強行採決を通した【共謀罪】を問題視して企画を通し取材を続ける。
テロ対策特別措置法という名称は政府のお為ごかしであり、その名前で報道するメディアは政府を追認していると言い切る彼だが、上役によるチェックの後で戻ってきた原稿には共謀罪の言葉はなかった。
前職で同じく東海地方のテレビ局で記者をしていた渡邊さんは派遣社員として東海テレビに入社する。結果を出さなければ契約を切られてしまうと焦る彼だったが失敗の連続で上司に
怒られる日々。ようやく仕事にも慣れてきたところでとある企画を通すが、取材の手法に問題があることがわかり放送直前に企画はキャンセル。1年後、彼は【卒業】という名の派遣切りを宣告される。
ああ、この欺瞞、この矛盾。
『さよならテレビ』という言葉がとてつもないリアリティで迫ってこないだろうか。
なお、上に列記したテレビの役割は決してわたしが考えたものではない。
テレビ局に社会科見学で訪れた子供たちに局員たちが自ら伝えたものを転載しただけだ。
ああ、さよならテレビ。