希望の国

このエントリーをはてなブックマークに追加

映画「希望の国」 12年 日本
監督:園子温
主演:夏八木勲
   大谷直子



まだなにも終わっちゃいない。
どこにも逃げ場なんてない。
圏内と圏外。それを分けるのは人が勝手に打ち付けた杭だけで、道のあちら側の家はダメでこちら側はオーケーなんてそんなことあるわけ、本当は、ない。
それじゃあ境界線からどれだけ離れたのなら大丈夫なのかって、要はどこも同じなんです。
それを20キロより外なのか内なのかってだけで線引して良しとしてしまったこと自体に無理があることをこの映画は痛烈に非難します。


ただ、このテーマをきっちりと消化して作品にするのはやはり難しいのでしょうか。
園監督は前作「ヒミズ」でも被災した街を撮っています。しかしこの映画はそもそも震災前に脚本が作られていたそうなので、被災地のシーンが取ってつけたように見えてしまうのも無理からぬことだったと思います。
それに比べて今回ははっきりと震災と原発がテーマとして取り扱われているので被災地でのシーンには必然性があり、説得力があります。
物語も震災直後の、そしてそれから地続きの日本を架空の長島県という設定を使って見事に描いていると思います。
それでも映画を見ながらどうしても作品に入り込めなかったのは、やはり現実がフィクションを凌駕してしまっているからなのかもしれません。
どれだけ物語を描いてもそれは現実の「再現」でしかなくなってしまうのです。


ぼくはきっと園監督もそれを承知で前回も今回も被災地にカメラを向けたのではないかと思っています。
そこにはきっと表現者の「業」があって、あれだけの現実に晒されて、それをなかったことのようにはできないという誠実さが監督をこの作品に導いたのだと思うのです。
作品の中で村上淳の演じるキャラクターがお腹の子供を放射能から守るために防護服で街を歩く奥さんを職場の同僚にバカにされてこう叫びます。


「お前らだってちょっと前まで汚染に気をつけていただろう。それがたった1ヶ月でもう忘れてしまったのか」


あれから1年半以上の時が経ち、この言葉は僕たちに突きつけられました。
まだなにも終わっちゃいない。
どこにも逃げ場なんてない。
この絶望を突きつけるために過酷なフィクションに身を投じた園監督に僕は希望を見た思いがしました。