エイミー・ワインハウスは死ななければならなかったのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加

イギリス現地時間の7月23日午後3時54分に歌手のエイミー・ワインハウスが自宅で亡くなっているのを発見された。
詳しい状況はこれから明らかになっていくだろうけれどおそらく薬物の過剰摂取が原因だと推測されている。
享年27歳。早すぎる死は世界に衝撃を与えたが、ある意味でこれは予想されていたことでもあった。
だからこそ彼女の死を防ぐことが出来なかったことが周りの人々には悔やまれることだろう。
世界的大ヒットとなった2ndアルバム「Back to Black」と前後して彼女のアルコール依存・薬物依存はその度合いを深めていた。
それがアーティストとして成功したことへの反動もしくはプレッシャーからなのかは分からないが、己の創造性を形にして表現する人々の中には自制がきかず酒やドラッグに溺れて悲しい結末を迎えてしまうケースがままある。
ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーン。直接の死因が酒やドラッグでない場合もあるがみなそれらに取り憑かれ抜け出せなかった。ちなみに彼らもエイミーと同じく27歳で亡くなっている。
なぜ他のアーティストと違い彼らは苦悩の末に死ななければならなかったのだろうか。
思うに彼らは潔癖過ぎたのだろう。自らの理想に過度な忠誠を誓いすぎたために彼らはその理想に反する現実を何とかして拭い去る術を酒やドラッグに見出したのではないか。
念のため断っておくが、これはその他のアーティストが適当に作品と向かい合っているということを意味しない。
彼らは心が弱かった。この一言で片付けることだってできるかもしれない。その弱さが彼らの作品に取り替え不可能な魅力をもたらしていたとすればその行き着く先が今回のような不幸であることもまた彼らの表現を補強するだろう。
とはいえそれでこの話を終わらせてしまうには失った才能が偉大すぎる。
これは適切な表現ではないかもしれないが、彼らはきっとその偉大な才能とうまく付き合う方法を知らなかっただけなのではないかと僕は思っている。
気の置けない誰かと語らう。旅に出る。本を読む。体を動かす。とことんまで自分と向き合う。これらは僕たちも日常的に行う気分転換の方法だ。
表現者と呼ばれる人たちにしても新たな創造性を獲得するために、または創作に行き詰まった時にとる行動は大きく違わないだろう。
ただ、うまく付き合うべき才能が少しばかり手のかかる場合にはまた違うアプローチが有効なのかもしれない。
数日前に出会った動画がまさかこんなに早く新たな意味をもたらすとは思わなかった。


下記リンクでTEDへ。
http://www.ted.com/talks/view/lang/jpn//id/453


映画化もされた小説「食べて、祈って、恋をして」が世界的なベストセラーになった小説家エリザベス・ギルバートはその成功のために次の創作に取りかかった際、これまでにないほど大きなプレッシャーを経験した。
そんな彼女がどのようにそのプレッシャーとうまく付き合っていったのか。この動画で彼女は以下のように語っている。


その昔、人々にとって創造性とは精霊(ダイモン)がもたらすと信じられていた。
ジーニアス(才能)とはもともと才能ある人をさすのではなく精霊のことを指していた。
その才能が精霊から人間へと委譲されたのがルネサンス
そこから500年に渡って人は創作の苦悩を全て一手に引き受けてきた。
ここでもう一度その才能を精霊へ返してみてはどうだろうか?



創造にともなう酸いも甘いも身ひとつで引き受けるからこそ生まれた偉大な作品は数え切れないだろう。
しかしそれが抱えきれない痛みになりその身を引き裂いてしまうのならば姿も形も知らない誰かにすこし肩代わりしてもらってもいい。
エイミーの死がそれで避けられたのならば僕は精霊を信じよう。


RIP Amy Winehouse




参考記事:エリザベス・ギルバートに学ぶ、表現者に付きまとう苦悩を回避する方法