Born to Run

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ここ最近では記憶にないほどの没入度を伴いながらの読書体験。
特に中盤以降の展開はまるで少年漫画の王道のよう。
だって、めちゃくちゃ脚の速いランナー達が一堂に会してレースに挑む、
それもそれぞれのキャラ立ち具合がまた最高って、そんなの面白いに決まってるっての。
ランナーとしての視点から言えば目からウロコ、それでいながら懐疑的にならざるも得ないという二律背反に苛まれる。
高機能のシューズほど足に悪いって物言いは納得できる部分もあるけれど、「単にあんたのフォームが悪いんちゃうの?」
ということも忘れずに付け加えておきたい。
というか、靴はいらないなんて事実を受け入れたらちょっとしたアイデンティティ・クライシスになりかねないよ。
それにメキシコの奥地・銅峡谷に潜むタラウマラ族(ペラペラのサンダル)とアメリカからの刺客・ベアフット・テッド(名前の通り裸足で走る)以外は結局、何かしらの靴履いてたわけだしね。
とはいえ既に歩き方からして裸足で歩いていたら?を意識しながらの歩き方になっている自分。
そしてそれで歩くと明らかに腰の辺りにビシッと安定感を感じる自分がいることも公平に記しておく。
まだこちらに越してきてから走れてないのだが、もうどう考えても自分の走りに変化が訪れる気がしてならない。




今まで僕は走ること(マラソンと置き換えてもいい)に意味を見いだすという思考を意識的に避けていた。
それはなぜか?
もともと僕にとって走ることは自己肯定を成し遂げるための手段に他ならなかった。
それもその自己肯定は限りなく現実逃避に近い意味を持っていた。
ああなりたい、こうなりたい、そう思いながら結局何も出来ない自分。
「俺は今日なにをした?」
そんなことばかり思いながら鬱屈していく毎日の中に
「俺は今日なにかした!!」
と極めて安易な満足感を与えてくれるもの、それがランニングだった。
僕にとって走ることはいつか来る「その日」に繋げる一つの手段でしかなかった(結果的にその日はまだ訪れてはいないが)。
だからこそランニングそれ自体が僕の人生の意味になるわけにはいかなかったのだ。
しかしこの本は簡潔にこう言い切った。
「人は走るために生まれた」と。
僕はその瞬間に誇張でなく身体がとても軽くなった。
「走ることにもともと意味なんてないじゃないか。なぜなら僕たちは走りながらここまで来たのだから」


最後に走ることをためらう誰かにこのパンチラインを贈る。

人は年をとるから走るのをやめるのではない(中略)走るのをやめるから年をとるのだ
                                        「Born To Run」P.345

BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”

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