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生き物とは?

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分子生物学者の福岡伸一氏の著書「生物と無生物のあいだ」を読みました。
まえにここでも紹介した同じく福岡氏の筆による「動的平衡」がとても面白かったので。
果たしてこの本もとても興味深いものでした。
氏の著書が面白い理由はなによりもまず文章の巧みさにあると思います。
すこし長くなりますが「動的平衡」から一部を抜き出します。

数年前の年末年始、パリで冬休みを過ごした。私が投宿したのはセーヌ川左岸のカルチェ・ラタン地区、メトロのモベール・ミチュアリテ近くの安ホテルだった。
ホテルの小さな窓からは、高さが揃ったエコール通りの古いアパルトマンの整然とした街並み、その向こうにノートルダム聖堂の尖塔を見ることができる。パリは恐れていたほど寒くなく、クリスマスを迎えて街角はどこもはなやいでいた。
ホテルから南に向かう坂は緩い上りになる。サント・ジュヌビエーブの丘である。丘といってもさほど高さはなく、斜面は細い街路が縦横に走り、建物がびっしりと張りついている。丘の頂上にはパンテオンが聳え立つ。
これをやり過ごして細い道を進むと、今度は賑やかなゆったりとした下り坂となる。ムフタール街だ。道の両側にはベトナムや中国の食材を扱う店やレストランが目立つようになる。ムフタール街に入らず、広場を越えて東へ少し戻ると、デカルト通りという名の短い道に出会う。そう、かのルネ・デカルトはこのあたりに住んでいたことがあるのだ。
正確には、デカルトの家はデカルト通りではなく、さらに細い路地を入った場所にある。今では何の変哲もない、ごく普通のアパルトマンになっているが、入り口には、デカルトの居所であったことを記した小さな銘板が張ってある。
その前に立って建物を仰ぎ見ていると、折から冷たい雨が降ってきた。傘を用意していなかった私は、あわててコートの襟を立て、コントレスカルプ広場まで走り、空いていたカフェに入って熱いミント・ティーを飲んだ。そして、デカルトの「罪」について考えてみた。
動的平衡」P224・225より。


ここだけ読むとこれは科学的読み物の一部とは思えない、まるでこ洒落た小説でも読んでいるかのような錯覚さえ起こします。そしてこんな小粋で気の利いた文章が氏の著書の全編に渡って展開されているのだから読んでいて面白くなるのも当然です。
そして肝心の中身ですが、この「生物と無生物のあいだ」ではその名の通り生物とは一体何を持って無生物と区別されているのかを解いていきます。
冒頭で福岡氏はまず生物とは自己複製を行うシステムであると定義します。
ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって1953年に発表されたDNAの二重ラセン構造はまさにこの定義を揺ぎ無いものにするに足る人類史上でも屈指の大発見でした。
しかしここで氏は一つの疑問にぶつかります。
それはウイルスの存在です。ウイルスはそれ単体では栄養の摂取や呼吸といった代謝を一切しません。さらに同じ種類のウイルスはそのどれもがまったく同じ形をした無個性のまるで生物というよりは物質というのがふさわしい存在なのです。
けれどウイルスは核酸つまりDNAを持っていて他の細胞に寄生することで自己複製を行えます。つまり上記の定義に照らし合わせるとウイルスは立派な生物なのです。
ウイルスを差別するわけではありませんがそれでも素直にウイルスも生物だと認めるのはどこか違和感を感じませんか?
そこで氏は世紀の大発見であったDNAとその構造が明らかにされるずっと前に、とある科学者によって提唱された説をとりあげます。
それが1930年代後半にルドルフ・シェーンハイマーの唱えた動的平衡という考え方です。
この理論は生命を超ミクロな視点で見るとそれはつまり分子が緩く固まっている「淀み」でしかないというもので、この緩い淀みを絶やさないようにしている働きこそが生物であるとここで再定義がされます。
ではその働きとは一体何か?それが代謝活動です。
生物は他のものから栄養、主にたんぱく質を摂取してどんどん失われていく分子をその都度補給して淀みを維持しているのです。詳しくは書きませんがこれはシェーンハイマーの行った実験結果からも確かな事実だと認められています。
この考え方で行くと自ら代謝を行わないウイルスはやはり完全に生物ではなく、生物の働きの効果である淀みに紛れ込むことによってただ自己複製を繰り返すだけの半物質といっていいのではないでしょうか。
動的平衡という生命観は生物の営みに肯定的な視点をくれます。
生命は他のものの命をもらって生きているということ、そして年とともにエントロピー増大の法則によっていつかは破綻をきたす生命という働きを繋いでいくために生物は子孫、つまりは新しい淀み、新しい秩序を残していくということ。
そんな視点でみる世の中は少しだけ楽しい。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

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動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか

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