学ぶということ

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電車に乗っているとき僕はとてもキョロキョロします。
車内広告を見るために。好きなんです。中吊り広告とか網棚上部の広告とか。
色々なことがあるのだなぁと思いながらキョロキョロしています。
たまに全車両まるごと一社の貸切広告車になっているときがありますがあの時は最低。
とくに洋服の青山のときね。あんなに何度も三浦友和見せられてもさ。
話がそれましたが、今日もそんな風にして車内の広告を眺めていました。
その広告は扉に貼られたシールタイプのやつで、とある経済大学の最近の入学者の傾向について宣伝がされていました。
不景気は男子にも女子にも平等に来る。だからなのか最近は女子の割合が増えているのです。
とまあこんな内容の広告だったのですが、僕が気になったのは別のところ。
だから今こそ実学、とそんなキャッチフレーズのようなものがそこにはありました。
実学、よく聞く言葉です。
実際的な学問、実になる学問、とでも理解すればいいのでしょうが、要は就職に有利だってことでしょ?
なんかその考え方がいやだな。
学ぶことが即カネに結びつかなければ意味がないとでもいうような言葉だし考え方ですよね。
つまり経済活動こそがこの社会で一番尊いことなのだ、と言っているわけで。
これは前に紹介した松岡正剛氏の著書でも触れられていたのですが、いまの新自由主義という市場原理主義とそれにもとづく個人主義というのはあくまで人は誰もが向上心、つまりはいまより金持ちになりたいという願望を持っているという非常に自分勝手な誰かの思い込みによって成り立っていて、そうじゃない人はどんどんはじき出されてしまう。
新自由主義の唱える自由というのはあくまで市場の中での自由であって、いつしかそれが社会の中の自由や個人の自由までをも定義してしまったからおかしくなってしまった。そう言っているんです。
この見方でいくと、この実学の実という言葉の定義もやっぱり市場における実なんですよね。市場で使える学問だから実学
歴史や文学なんて学んでも働きに出てどうするの?とつまりそう言っているわけです。
でも言わせてもらうと何かを学ぶというのはその学ぶという行為自体に意味があるわけで、学ぶ先に何かがあると思うこと自体がとても卑しいですよ。
学ぶことで単純に恍惚感分かり易く言えばアガれたらそれでいいはずなんですよ本来は。
だからもちろん経済の勉強が死ぬほど面白いぜ、という人はそれをどんどん勉強すればいい。
でも就職に有利だからな、とかそんな考えで学ぼうとする人は本気で辞めたほうがいいよ。そんな生きながら死ぬような行為はそれこそ空しいでしょう。
誰かが作った空っぽの自由の中で生きるなんて本当は何にも自由じゃないとそう思います。
学ぶことが実になるかならないかは結局その人がそれを実にするかしないかでしか決まりません。
そして樹木がその実をつけるのに豊かな陽の光とたくさんの水を必要とするように、人間も恍惚感や好奇心という刺激がなければ大きな実を手には出来ないでしょう。