チョコレート効果86パーセントの軟着陸

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「生まれ変わったら何になりたい?」
「鳥になって自由に空を飛んでみたい!」
「僕はもう一度人間になってみんなと遊びたいな!」


たわいない子供達の会話や暇を持て余した大人達の雑談のトピックとしては適度な思考や想像力を必要とする点に於いてこれほどうってつけのものはないだろう。
僕自身もこの手の会話は嫌いじゃない。思いもつかない答えを聞くと脳が刺激されてとても楽しい。
しかしこのトピックを僕はあくまで会話のネタの一つとして機能する限りに於いてしか肯定しない。
リアルに生まれ変わりや死に変わりを信じるのは危険極まりないとすら思う。
初めに断っておくが人が死んだらどうなるかなんて僕は知らない。
もしかしたら天国や地獄があったり、たくさんの処女に歓迎されるかもしれない。
けれどもそれを盲信した先には矢張り現世の否定や生命の放擲が待っているだろう。


釈迦はそれまでインドで支配的だったバラモン教の思想を否定した。
つまり梵我一如。宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)は一つなのだということを否定した。
我なんてものはない。いや寧ろ全てのものに実体などないのだという空(くう)の思想がこれだ。
けれども仏教についての本なんかをペラペラめくると輪廻転生なんて言葉を目にする。
欲界には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の6つの世界があって人は悟りを開くまでこの輪の中をぐるぐる回り続けるというやつだ。
一見するとまるで生まれ変わりを認めているような概念だけれどもちろん違う。
ここで重要になるのが前述した空の理論の捉え方だ。


例えば「この世には実体がないのですよ」とか、「全ては空なのです」と言われても「私はここにいるし椅子に座って机を挟んであなたとお話をしています」と答えるだろう。
それはもちろん否定できない。現に僕もいまパソコンのキーボードを叩いてこの文字を列挙しているわけだ。
それでは空とは何なのか?と問われればずばり空とはラベリングだと答えよう。
有名な童話に裸の王様というものがある。
ずるがしこい服屋が王様の強い自尊心を巧みに利用してありもしない服を王様に着せる。
王様は王様で服屋の先鋭的なセンスを理解できないと思われたくないので話を合わせてそれを着る。
国民達も王様の言うことを信じないわけにはいかないので無理にそれを賞賛する。
しかし一人の子供が声をあげる。「どうして王様は裸でいるの?」
その途端に王様をはじめ国民の全ての目が覚めて王様は急いで服を着る。
空とはまさにこれだ。
つまり我々は裸の王様にありもしない真っ赤なマントやフカフカの毛皮というラベルを貼り付けて本来ならば裸(空)なものに服(実体)を見出しているに過ぎないのだ。


ここで生まれ変わりに話を戻すと少しは理解ができるだろうか。
要するに生まれ変わるのは僕やあなたではなくて、僕やあなたに貼り付けられたラベルなだけだ。
そしてそんなラベルを輪廻の輪の中に閉じ込めているのがそれに気付けない僕やあなたなのだ。