情熱 in the silence 状態

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ついに生まれて初めてのフルマラソンが3日後に迫ってきた。
去年走り始めたときにはまさか自分が大会にでるなんて考えてもいなかった。
それが今では現実的な目標として3時間半切りを目指せるまでになった。
むしろ先日某ランニング測定所にて科学的な見地から予測タイムをはじき出してもらうと「遅くとも3時間20分」という自分でも思いもよらなかった結果すら出た。
この際なので目標は高く持とうと思う。目指せ3時間20分切りだな。
さて、これから当日まで僕はどんな気持ちになっていくのだろう。
少なくとも今は全く気負いも不安も何もない。本当に何もないのだ。
それはおそらく僕が走り始めた根本に記録を狙いたいとか早く走りたいという動機がなかったからだと思う。
何をするでもなく無為に過ごした日々。そんな2007年の暑い夏に僕は走り始めた。
走ることは僕にとって贖罪と同義だった。
走った後にアスファルトを濡らす汗の量に比例して僕は救われる思いを抱いていた。
極めて単純で安直な満足感。それだけが僕を走らせる唯一の理由だった。
いや、実を言えば今でもそれが僕の走る理由の一つだ。それだけじゃないけどそれもあることは否定できない。
走りを通して知り合いになった人の中には40代にして僕なんか相手にならないほど速く走る人や、それどころか自己ベストを更新している人すらいる。
いま僕は思う。僕はどこまで速くなれるのだろう。どこまで走り続けられるのだろう。
作家の井伏鱒二氏の言葉に「さよならだけが人生だ」というのがある。
僕はこの言葉がとても好きで座右の銘にしたいくらいなのだけれど、自分の人生を切り開くのは矢張り自分の言葉であるべきだと思って最近この言葉を拝借して自分のだけの標語を作った。
「挑戦だけが人生だ」
これに尽きる。生きるとはつまり挑戦の連続だ。
世界を変えるとか大きなことでも好い。あそこ店のメニューを全部制覇するとか些細なことでも好い。
ただ何かに変態的なまでの情熱を燃やして挑戦することが美しいと思う。
僕も出来る限り様々なことに挑戦していこう。
そしてその中でランニングはどうやら生涯に渡る対戦相手になりそうだ。ならないかもしれないが。そのときはそのときだ。
いずれにせよ個人的には若干派手な挑戦の舞台が今度のマラソンだ。
今の僕は溢れんばかりの情熱を静かな心に携えている。
僕のファイティングポーズは常にこうでありたい。