What are you fighting against?

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日々色々な人達の言葉や考え方に触れる。昨今ではblogの普及も相俟って何処の誰なのか判らない人の価値観に接することもできる。
あるblogを読んだ。
その人は最近始めたばかりの仕事を辞めることを決めたそうだ。
blogの記述を読む限りではその人は単純にその職場には馴染めなかったのだろうと思う。
人と人が絡まることで出来ている職場であり、社会だ。誰にも合う合わないはあるだろう。そこで辞めるか続けてみるかは人それぞれ考え方があるだろうが、どんな選択でも誰が正解か不正解かを決めるものではない。
しかしその人はblogの中でこう書いていた。

嫌なら辞めるのか根性無し、と思われるかもしれない。
根性無しと思われて構わない

どうにも違和感が拭えない。一体だれがそんなことを思うのだろうか?思うとしてもせいぜいその職場の人間達くらいだろうし、彼らには多少の不満を持つだけの道理はあるだろう。企業としてはおそらく面接で「やる気なら誰にも負けません」とかそんな類の言葉に信頼を置いて採用したのだろうし、それを理由はどうあれ裏切られる形になったわけだしね。そこはある程度甘んじて受け入れるべきだ。
けれどそれ以外の人にしてみたらどうだろう。冷たい言い方かもしれないが、誰がその仕事を辞めようが知ったこっちゃないのだ。それを勝手に根性無しと思われても構わないって。
勝手に読み手を敵に仕立て上げて、自分はそれに立ち向かう勇者ってところだろうか。本当はとても気にするからそうやって自分に言い聞かせているようにしか思えない。なぜならそんな人に限ってコメント機能は非設置なのだから。何を思われても構わないなら、何かを言われる環境を用意してもいいのでは?
友達の斎藤先生も言っている。
馬鹿にされることが本当にあるのか?無いのに言うんじゃないよ。
人が人を否定するのは、そこに誠意がある限りはとても労力を要する作業だ。
それに比べて一時の感情や条件反射のようにただ口から発せられるだけの言葉はただの「悪口」だ。そんなもの言った本人だって次の日になれば、いやもしかしたら3分後には忘れてしまうようなものだろう。そんなものに対してわざわざ「何を言われても構わない」なんてファイティングポーズをしてもそれこそ徒労に終わるだけだ。だったら素直に「はい。根性無しです」と認めることのほうがよっぽど勇気が要るだろうし、心無い言葉を発した人間にも刺さるものがあるだろう。
存在しない敵を作り上げて見せかけの戦いを挑むよりも、本当に自分が立ち向かわなければいけないのは何なのかを見つけ、そこに邁進することのほうがよっぽど素敵だよ。