キャメロン・ディアスとにらめっこ

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目覚めればそこは終点で、それが最終電車だったものだから秋月正夫は疲れ果てた体の上に更なる疲れが圧し掛かってくるのを感じざるを得なかった。
正夫の利用する電車は首都圏から伸びる路線とは言え終着駅まで来ればそこは何の変哲もない田舎のそれに違いない。誰もいないホームに佇んで正夫が考えたことは夜空で光る星達の美しさや彼の頬を撫でる凪の柔らかさではなく、明日の出勤についての極めて現実的な対処方であった。今からタクシーを捕まえて家まで帰れば出勤までに3時間は眠れるだろう。しかしこの選択肢にはまた別の現実が立ちふさがる。正夫は自分の懐具合を計算に入れないわけにはいかなかった。そしてそもそもこれだけ身を粉にして働いても毎月自分の通帳に刻まれる数字はその代償と言うには控えめに考えても釣り合うものではないと、正夫は今更ながら自らの置かれた境遇に絶望を覚えた。かと言って会社を辞めればたちまち生活は立ち行かなくなるし、転職をしたところで今と何ら変わりのない待遇が自分を待っていることは分かっていた。そして何より彼は疲れていた。その疲れは彼からあらゆる意思を剥ぎ取ってただただ彼を社会に立ち向かわせた。しかし正夫には自らが立ち向かっているはずの社会など一片も見えてはいなかった。
正夫はベンチに腰掛けた。正夫にとって唯一幸いなことは今夜の気候の良さだった。これならこのままここで眠ってしまっても風邪をひくこともないだろうし、暑くて眠れないということもないだろう。正夫は背広を脱ぐとそれを掛け布団にしてベンチに横になった。身をやつすほどの正夫の疲れはその代わりに正夫に寝る場所を厭わせない神経の太さを与えていた。瞼を落として暫くすると無意識の波はすぐに正夫を飲み込もうとした。
そのとき鞄の中から正夫の携帯電話の着信音がした。正夫は一度深い溜め息をつくと、右手を伸ばして鞄の中から携帯電話を取り出した。画面には永田真二という名前が映っている。永田は正夫の古くからの友人であるが、正夫が東京に出てからはもう何年も連絡を取り合ってはいなかった。正夫は旧友からの突然の電話に若干戸惑いつつも電話を耳に当てた。
「よう。久しぶりだな」
「久しぶりって、何だよ突然」
「突然もなにも連絡なんて大体突然するものだろう。元気してるか?」
「ああ。元気が過ぎて今日は大自然の中で眠ることにしたくらいだよ」
「大自然?お前、東京にいるんじゃないのか?」
「流行ってるんだよ。東京じゃ。ロハスって言っても知らないか」
「何だそれ。変わったことが流行るんだな東京は」
「そう。野宿の一つもできないようじゃ都会人失格さ。それで?」
「ん?」
「何か用があるんじゃないのか」
「スキー合宿って面白かったよな」
正夫は永田に聞こえるように思い切り大きな溜め息をついた。
「そんな話か」正夫は出来るだけの苛立ちを込めた声を出した。
「そんな話って」永田は言葉に詰まりながらも続けた。「そんな話が出来るからこその友達だろ」
「友達。ああ、そうだな。何年か振りにそれもこんな夜中に遠慮もなしに電話してくるんだ。そりゃあ立派な友達だろうよ」
「俺だって悪いとは思ってる。こんな時間に電話して。お前も疲れてるとは思うし。でも……」
そう言ったきり永田は黙ってしまった。正夫はベンチに寝転んだままでもう一度大きく溜め息をついた。出来ることならこのまま電話を切ってしまいたかったが、正夫の中に僅かに残った情がそれをさせなかった。
「お前そっちで随分酷い生活をしてるみたいじゃないか」
沈黙を破って永田の口から出たのは正夫の思いもよらない言葉だった。
「このあいだお前のおふくろさんに会った時に聞いたんだよ。心配してたぞ、おふくろさん。いつ連絡しても辛いとかそんなことばかり言ってるって」
「関係ないだろ」正夫が吐き捨てるように答えたのは永田への苛立ちではなく自らの心の動揺を誤魔化すためだった。「仕方ないんだよ」
「仕方ないって、そんなに辛い思いして親に心配かけてまで東京にいなきゃいけないのか。死んだみたいにただ生きるだけで、そんな生活に意味があるのか」
「判んないんだよ。お前みたいにずっと田舎で過ごしてるようなやつには」
「ああ。判んないよ。ロハスだか何だか知らないけど流行ってるからって無意味に外で寝てみたり、ただ御飯を食べるためだけに生活していく都会人のことなんてさ」
正夫は返答に窮した。正夫は毎日同じように淡々と過ぎていく田舎の生活が嫌いだった。東京に出れば毎日楽しく過ごしていけると信じていた。しかし気付けば結局食べるためだけに労働をして、他には何も手にしていなかった。
「スキー合宿の出し物で俺達が歌った歌、覚えてる?」永田の声にとても穏やかな色が見えた。
「え?」
「あの時はよく判ってなかったけど今なら判るよ。大人になるって結構いいよな。盆でも正月でもいいからたまには帰って来いよ。それじゃあな」
それきりで電話が切れると正夫は体を起こしてぼんやりした頭を整理した。あの時の歌。それを思い出して歌詞をなぞっていくと、意外にもしっかりと覚えていた。全部を口ずさんだ後でおもむろに視線を上げると、漸く星の瞬きが正夫の目にも届くようになった。