人類総哲学者論

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哲学という言葉を聞いたとき、みなさんはどのような反応をするだろう。
「哲学ってなに?」「小難しそう」「理屈っぽくて嫌い」などの反応をする方もいるだろうか。
そもそも世の中には様々な学問があって、例えば数学ならその名の通り「数」に関係した事柄を学ぶし、語学なら「言葉」を学び、経済学は「経済」に関する様々な理論を学ぶ。それでは哲学の「哲」とは一体何なのだろう?広辞苑によると

てつ<哲>
1.道理に明るいこと。さといこと。さとい人。
2.哲学の略

だそうだが、はっきり言ってなんのことだかサッパリである。道理に明るい人のための学問?さとい(かしこい)人のための学問?それなら結局俺達にはカンケーねぇ!って思う人がでてくるのも無理はない。
そこで今度はこの「哲学」という言葉の潮流を遡っていこう。
まず初めにこの「哲学」という言葉は元々日本語には存在しなかった。この言葉が初めて登場したのは明治時代。当時の思想家であった西周(にし あまね)が「philosophy」という英語につけた「希哲学」という日本語訳が始まりだった。彼はこの言葉に「道理に明るい人間になることを望む学問」という概念を見出したのだが、そうなると今度は「philosophy」という言葉の潮流を遡らなければ西の思惑は読み取れないだろう。
御存知の方も多いと思うが英語はその大多数に多言語からの影響を受けている。フランス語やラテン語の中に英語に似た言葉を多く発見できるのはその為であり、それはこの「philosophy」も例外ではない。では、この「philosophy」という言葉の源泉はどこだろうかと言えば、それはギリシャになる。
当時のギリシャにはソクラテスという偉大な賢者がおり、彼はそれ以前の賢者達が振りかざしていた正義や美という概念に確固たる定義を与えようとした際にかの有名な「無知の知」という境地を切り開いた。彼はそこで「知そのものは持たないがその代わりにそれを追い求めよう」という姿勢を取り、それに共感した彼の弟子たちは彼の行動にギリシャ語で「知を愛する」という意味を持った「philo(〜を愛する)sophia(知)」という言葉をつけた。
つまり、だ。哲学というのはもともと小難しい論理体系を構築したり、それを振りかざしていい気になるための学問なのではなく、これは何だろう?あれはどうしてなんだろう?といった人間が本来持っている知的好奇心のことを指す言葉なのだ。知的好奇心などと言うと敷居が高く感じる人もいるかもしれないが、それはある人にとっては、明日の天気はどうだろう?ということかもしれないし、またある人にとっては新しいゲームの攻略法を意味するかもしれない。皆さんや僕が誰かを好きになって「あの人は自分のことをどう思っているのだろう?」と思い悩むのも一つの知的好奇心だ。要するに「何かを知りたい」と思ったとき僕達はみんな哲学者だと言っても過言ではない。
物事は見る角度によって様々な表情を浮かべる。ほんの些細なことでもいい。深く深く思い悩んでいるときだっていい。あなたがそれを知りたいと思ったり、答えを出したいと思ったときあなたは立派な哲学者であり、知を愛する行為を営んでいるのだ。こう思っただけで何だか胸を張って生きられる気がしないだろうか?